田籾の伝承を歩く〜豊かになった本当の理由〜
1. 田籾の民話『鶏石』
愛知県、豊田市の端に「田籾町」という町があります。飯田街道沿いに田園とともに民家が見られる場所には、豊田の昔話には必ず載る『鶏石』という話と、その話の元になった石があります。現地には牛二頭分もある大きな石の周りも整備され、話を伝える案内板などとともに県道脇にたたずんでいます。ここで、この昔話『とよたのむかしばなし』*1 の筋書きを紹介します。
『にわとり石』
今からおよそ六〇〇年ほど前のこと、加納歳武治(かのうさいむじ)という武士が戦に負けて、田籾の村にやって来ました。
かれは、武士から百姓になって、この田籾の村で野山を切り開き田 畑を作ろうと、懸命に働きました。やがて、三年もたつとけっこうくらしていけるほど、お米がとれるようになりました。
村人たちは感心するが、それにつづこうとする者はいませんでした。それは、今以上に野山を切り開き田 畑を作らなくても、それなりにくらしていけたからでした 。
ある日、歳武治が朝早いうちから田に出ると、「コケコッコー、夜が明けたー」「コ ケコッコー、はよ起きよー」と、にわとりの鳴き声がします。どうやら林の方からそれは聞こえ、探してみると、草の中に大きな石があり、たしかにこの石から聞こえてくるようです。
この話は村中に広がりました。村人たちはにわとりの声を聞こうとして早起きをするようになり、にわとりの声を聞きながら働くようになりました。そして、村は豊かになりました。
ところがある日のこと、どことも知れない石屋の夫婦がやってきて、男はこの石をのみで割ろうとし、女は洗濯物をその石の上に干しました。これ以降、この石はにわとりの声で鳴かなくなったということです。
*1【にわとり石『新とよたのむかしばなし ふるさとの51話その1』豊田市教育委員会 文化振興課/企画・編集 2009.3 より引用】
この『鶏石』という民話は収録されるたびに少しずつ変容しているため、今回調べた『愛知のむかし話』*2とは異なる点がいくつか存在します。 『愛知のむかし話』では、この部落が元々「おもみ」という名前であったこと、加納歳武治がなぜ百姓になったかという背景が伝わっている代わりに、鶏石がなぜ鳴かなくなったのかについては記されていません。しかし収録した本の発行年数や後述する他の資料から、この『愛知のむかし話』に収録された話が元々の話に近いのではないかと考えています。以下『愛知のむかし話』を『とよたのむかしばなし』との相違点を中心に紹介します。
歳武治は足助城主である足助次郎重範(あすけじろうしげのり)の家来でした(重 範は足助氏の歴史の中でも有名で、『太平記』などにも名前が載る*3 )。彼が笠置山の 戦いで敗れ、これを知らせに家来である歳武治が飲まず食わずで足助へ戻る最中、このおもみ部落で倒れてしまいます。それを部落の住人が助け、恩を感じた歳武治は一度足 助への報告を終えた後またおもみに戻り、百姓となって精を出します。こちらの話では鶏 石は一度も鳴く姿を見せず、代わりに「石が鳴いたぞ」という声が噂されるようになります。以降の住人たちの早起きの癖が付くところは同じでです。
*2【『愛知のむかし話』愛知県郷土資料刊行会 編・1973 年 4 月より引用】
これだけ話が相違する理由に、歳武治の出身であろう足助の地に似たような民話が残っていることがあげられます。『三河の民話』*4 には、同じ「にわとり石」という題で、舞台が中立の里で起きているものがあります。
2. 足助地区の民話『にわとり石』
中立の里(現在の豊田市中立町、足助町より少し北西部に位置する)では、土地が 痩せており、食べていけるだけの食料もなくて耕すのをあきらめていましたが、例のごとく鶏の声がきこえて、狩るために村人が早起きしだしました。とある日、住人の一人が高蔵連(たかぞうれ。同じ名前の村が昔あったが、地図では足助とかなり距離があるため、関連があるかは不明)の近くまでやってきて一息つこうと腰を下ろしたところ、そのおろそうとした石が鶏の声で鳴くのを聞きます。住人たちはこれは神様のおさとしだとして考えを改め、あきらめずに耕して豊かになりました。あるときこの豊かさ に目をつけた乞食の親子がやってきて、子どものおしめを洗って石の上に干したところ、それから石は鳴かなくなってしまいました。
*4【『日本の民話 65 三河の民話』未來社・寺沢正美 編・1978年4月より引用】
この話を見るに、この『にわとり石』と、田籾の『鶏石』が混じってしまい、田籾の鶏石でも「鶏が鳴くのを実際に見、」「豊かになったところで外から誰かがやってきて醜態を働き、石が鳴かなくなる」話が付け加えられたとされます。逆に考えれば、混じる前は「田籾では鶏が鳴いたと聞いたが実際に鳴いているのを見たものはいないため、そもそも鳴かなくなった原因を語る理由がなかった」ともとれます。鳴かない石はただの石です。しかし この石は足助には実在している証拠を見つけられませんでしたが、田籾にはそれだと言わ れている石が実在しているのです。
3. 巨石としての鶏石
『愛知発 巨石信仰』*5 にもこの鶏石は「岩神」の分類で掲載されており、「岩神」「鶏 石」について以下のように記されています。
岩神はそれ自体が、雨乞いの神、イボ取りの神、豊作生産の神、または神さんが乗ってきた岩などとされるものをいう。(中略)この付近は堆積層のはずだが、なぜか牛が横たわるより大きな岩(花崗岩)である。
*5【『愛知発 巨石信仰』中根洋治 著・愛知磐座研究会・2002 年 8 月 出典】
鶏石が岩神に分類されているのは、恐らく民話の内容から「豊作生産の神」と見なされてのことでしょう。堆積層、というのは岩石化していない砂や泥などが重なったものですが、花崗岩というのは完全に岩です。記述には含まれていませんが、鶏石はどこかから運ばれてきたのではないか、と推測できます。
また足助では「足助みかげ」という石が採れる採石場があり、これは花崗岩で出来ています。このことから、「鶏石は足助から運ばれてきたのではないか」と推測しました。この大きな岩をどうやって運んだかは定かではありませんが、この推測で、「足助の近隣、中立には鶏石なるものが存在していたが、それを知らない人物が現れいけないことをしてしまい、鶏石が鳴かなくなった」「足助出身の歳武治はその伝説にあやかり、おもみ部落を耕すために足助から鶏石を持ちだした」「鶏石は中立にある時点で既に鳴く能力を 失っていたため鳴かないが、歳武治が『石が鳴いた』と言いふらしたため部落の住人が早起 きをするようになった」「石を持ちだしたため足助の方には鶏石という名の石は現存しない」と納得することが出来きます。
足助は巨石信仰が多く残る町で、鶏石の元になった石を探してみましたが上手くまとまりませんでした。
一つは秋葉山の石である可能性。全国各地に秋葉山は存在し、またその頂には火伏せの神 を祀るための石の祠や、大きな岩そのものがあることが多いです。これが足助町則定に存在し、 また採石場があるという場所も則定にあります。「秋葉山山頂の石が鶏の声で鳴く」という民話 も遠い福岡の地にあるようです。【みなまたの民話『鬼の歯形石』 熊本県水俣市 HP より閲覧引用】
もう一つは豊作をもたらす山の神「飯盛山」の岩である可能性。飯盛山には岩群がいくつ もあり、所在する飯盛山についての記述が『愛知発 巨石信仰』には載っています。
一般的に飯盛山とは、腕に飯を山盛りに盛った形をいう。豊作をもたらす山の神、 即ち田のこもろ山で、山頂に社がよくあるとされる。【『愛知発 巨石信仰』出典】
ではなぜこのおもみに持ち出して田畑を作ったのか。これには決定的な資料は見つけられなかったため推測に過ぎませんが、主に「荘園拡大説」と「田籾霊場説」を提示します。
4. 荘園拡大説
この話の時代は『愛知のむかし話』で歳武治が「笠置山の戦いに負けた」とあることから、 丁度鎌倉と室町の間、建武の新政が敷かれる前くらいだと考えられます。この時代は荘園の所 有関係も非常に流動化したようだったため、田籾もその波に当てられ歳武治がこれを主導
*6 したのではないかと考えました。『愛知県史・別巻』でその類の資料が残っていないか探しましたが、目立ったものは見つかっていません。
*6【『愛知県史・別巻』(第 3 期第 5 章「荘園の推移」、愛知県、1938 年) 国立国会図書館デジタルコレクションにて閲 覧】
5. 田籾力場説
田籾という場所は尾張国と三河国の境界にまたがる三ヶ峰峠を、三河の方へ下ってきたところにあります。この村はこの鶏石の他にも「強い講座主をするため御嶽社をつくるも、時が経 ち信仰が薄れるとともに悪霊化した」「きつねに何度も化かされて家にたどり着けない」など民話に収録されていない言い伝え(きつねの話は現在も被害が出ている)があり、「現世ならざる力が働く、空間が歪む」などの認識がなされています。*7 歳武治も飲まず食わずだったとはいえこの峠を越えて足助へ帰る途中、おもみの部落で倒れ、そこの住人に助けられています。『愛知のむかし話』では足助からおもみへ戻った理由を「住人たちの恩が忘れられなかったから」としていますが、ここの力場としてのちからを感じて、「力を失った鶏石の復活」を考えたのではないでしょうか。
*7【田籾の言い伝え(御嶽当番の箱に入っている書類、母や祖母、近隣住民の世間話)参考】
6. おわりに
今回のことで、鶏石の岩神としての顔を、あらためて思い起こされました。民話の内容から「豊作生産の神」と見なされて良い効果をみれば、信仰されて当然のものでした。
鶏石の岩神としての顔は「豊作生産の神」ですが、「裕福」「勤勉」「開拓」「はじめる」「殖える」などの徳があります。鶏石の鎮座地である「田籾町」は、飯田街道を車で向かう中よもや通り過ぎてしまうほどの町ですが、岩神さまの霊験を感じられるかたも多いと思います。
徳を管理されてみえる神様といえば、天照大御神でしょう。太陽神、農耕神、機織神など多様な顔を持ち「斎庭の稲穂の神勅」でも知られるように、「米を作り」を応援されています。
天照大御神を主祭神として祀る伊勢神宮の鶏は神鶏とよばれ、神の使いとされていますよね。
鶏石は、「コケコッコー、夜が明けたー」「コ ケコッコー、はよ起きよー」と、村人たちを早起きにして結果、村はさらに豊かになりました。
神代の天の岩戸の神話で、鶏(常世の長鳴鳥)は「カケコー、カケコー …」と、岩戸から外へ天照大御神を誘い出し再び明るい世に戻しました。【神鶏と神馬 - 伊勢市立図書館より引用】
鶏石の隣には、お不動さまが祀られてありましたが、長くこの地で祀られていくうちに今のかたちになったのでしょう。もちろん二柱共に霊験あらたかなのは、言うまでも在りません。
この記事を書き終えたあと再び参拝させて頂きました。「我が家が、豊かに栄えますように…」
「にわとり石」についての別記事があります。そちらでは、写真や交通アクセスなども載せました。覗いてみて頂ければ幸いです。こちらから、どうぞ▶︎【鶏石 にわとり石 むかしばなし】